BARRY SNYDER SUPER LESSONS 2018
素晴らしい受講レポートや感想を数多く頂きました!
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ある友人のご厚意で、急遽米国イーストマン音楽院教授バリー・スナイダー先生のスーパー・レッスンに参加してきました。スナイダー先生は、我らが小曽根真さんのクラシックピアノの先生でもあります。テーマは「ペダリング」。そうピアノの・・・。果たして私に理解できるのだろうかと思いつつ、虎ノ門のベーゼンドルファーを目指しました。
慈愛に満ちた穏やかな風貌の先生ですが、レクチャーは極めて論理的で緻密。鍵盤楽器にペダルがなかったバロックの時代、作曲家が装飾音を多用して音量をあげたことにはじまり、ペダルが生まれピアノ自体が大きく進化する中で、モーツァルト、ベートーベン、シューマン、ショパンらが、一音一音に魂を込め、新しい音楽を創造していったのかを、ベーゼンドルファーのフルコンで実演をしながら、情熱的にお話くださいました。最後はドビュッシーら印象派まで2時間。鈴木陶子さんの的確な通訳とビデオを用いたテクニカルな説明もあって、ピアノが弾けない私もすっかりペダル通に。西洋音楽史の流れの中で、いかなる奏法が生まれ、変化を遂げていったか。テクニカルな側面に光を当てた大河ドラマを見るようでした。最近のピアノは性能がよくなったので、ノンレガートの指づかいにペダルを加える奏法が主流であるのに対して、スナイダー先生はピアノがペダルを持たなかった時代の奏法のテクスチュアに十分に配慮しながら自分の演奏を考えるべきだと主張されます。しかし、復元演奏ではない。作曲家が音楽に魂を吹き込む時の現場に立って楽曲を理解しよう、演奏しようという立場。時代時代の楽器の限界と、それゆえに譜面に表された音楽的工夫と創意にきちんと敬意を払い、継承すべきものはして、その上で現代の演奏を考えようと語るのです。現代の演奏家の多くはそうではないかもしれないが、私はこれまでもこれからも若い人々にそう教えてゆくとも。
たいへん感動的なレクチャーでした。これからピアノの聴き方が変わるかもしれないとさえ思います。十数名の方々と聴いたスナイダー先生のレクチャー。「芸術音楽まちづくりフォーラム」と鈴木陶子さん、そして受講のチャンスをくださった友人に心から感謝します。ありがとうございました。
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昨年初めて、アメリカ・イーストマン音楽学校名誉教授バリー・スナイダー先生のセミナーと公開レッスンを受講致しました。
音楽史の流れに沿った音色の創り方に焦点を絞り、実際に様々な曲をデモンストレーションしながらのレクチャーは、それらの曲を具体的にどのような「タッチ」で演奏すればよいかを、ご自身の音をもってご提示下さいました。
楽曲分析や理論、時代考証がその裏付けになる事は重々承知してはいますが、ではそれらを網羅して実際はどのような「タッチ」でどのような「音」にしたらよいのか。
ピアノを演奏する者にとって、いつもいちばん知りたい部分であります。
今回のレクチャーでは、ペダリングにスポットを当て、頭でっかちになりがちなバロックや古典の「音」の創り方、楽器の変遷とともに感情表現をも可能になるロマン派以降の音量や音色をどう演出するか等々を、ペダリングの扱いをもってしてその表現の多様性をご提示下さいました。
午後はベートーヴェン、ラフマニノフ、スクリャービン、ドビュッシーの曲の公開レッスンがありました。(私はドビュッシーを受講)
バリー先生の穏やかでおおらかなお人柄もあり、たいへん和やかな雰囲気のなか、それぞれの楽曲に要求される「音」を、不可欠なテクニックやその習得方法や練習の仕方にまで掘り下げ、レッスンして下さいました。
受講者のみならず、聴講の方々にもたいへん有効なレッスンに思いました。
特にテクニックに於いては、その曲に起きている「現象」の解決に留まらず、その「原理」を理解し習得する術を過不足なくご教授頂き、個人的にはたいへん有意義に感じました。
微に入り細にわたる各論的な、楽曲にフォーカスしたレクチャーも大事ですが、音楽史全体を概論的かつ大局的に捕らえ、その演奏の原理を一回のレクチャーでキャッチできるバリー・スナイダー教授のこのような講座は、たいへん有難いと今回も強く感じました。
ご企画頂いた鈴木陶子先生の着眼点に敬服致します。
更なる展開の一つに、広い空間(ホールなど)での音創りのレッスンやレクチャーを希望致しました。
コンクールやコンサートなど、ホール演奏時でのアドバイスを、バリー先生の観点から頂ける機会があれば有難いと思いが膨らんだからです。
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Barry Snyder Super Lessons 2018に参加してきました。8月21日(火曜日)のPrivate Lessonと24日(金曜日)のセミナーです。それぞれ別々にコメントします。以下はセミナーについてです。今回のBarry Snyder教授のセミナーのテーマはペダリングでした。
Pedaling is like icing on a cake. ペダルというのはケーキの上を飾る装飾のようなものだ、と少し誤解しそうな言葉でSnyder教授のセミナーは始まりました。よくよく聞いていると、Snyder教授が強調したいのはケーキそのもののことだと分かってきました。例えばこの頃多い演奏にと実際に音を出しながら説明しました。ペダルを深く踏みっぱなしで神経の行き届かない指をパラパラと動かす奏法。確かにこういう演奏は遠目には華やかに聞こえるが、音楽的な息遣いが感じられない全力疾走のスポーツのようなもの(全力疾走のスポーツとまではSnyder教授は言いませんでしたが、そう聞こえました。)では、ペダルは最小限にという主張かというとそうではない。ペダリングのセミナーが踏むとか踏まないとか、踏むとすればどのくらいまで踏むのかという議論をはるかに越えて、音楽の解釈と密接なペダリングのあり方を終始一貫して力説していたSnyder教授のセミナーは、世の中によくあるマスタークラスとは一線を画すものでした。
結論から言うと、ペダルは音楽の歴史と密接な関係にある、と言うのが私の受け止めた理解。歴史の流れの中で楽器が変遷してきて音の響きも変化し、楽器だけでなく音楽書法も大きく変化してきた。その変化を視野に入れないでモダンピアノで譜面に書かれていることをそのまま弾いても、それは正しくペダルを使ったと言うことにはならない。こういった議論はバロック音楽、例えばバッハの鍵盤曲をモダンピアノで演奏するときによく登場するので、驚かない人も多いかもしれない。バッハでは最小限のペダルを、あるいはどこであってもペダルを踏んではいけないと教えるピアノ教師は巷に溢れる。ではなぜ踏んではいけないのかを説明できるピアノ教師がどれほどいるでしょうか?バロック時代の鍵盤楽器にはペダルがなかったからと言う幼稚な理由から始まり、私はペダルがない音が好き、嫌いという感情レベルの議論を生徒に押し付けている。もっとも多いのが理由なしというのが現状。
Snyder教授はバッハの楽曲でペダルを踏んではいけないとは言わない。踏めとも言わない。踏む箇所には、踏まない箇所には楽器、音楽表現の必然性が存在することを、バッハのフランス組曲のアルマンドとサラバンドを例にとりながら説明が始まる。これは非常に説得力に溢れたオープニングでした。アルマンドは三声で書かれており、バスとテナーの音を詳しく見ると、その対位法的な旋律が巧妙に主旋律を際立たせるように書かれている。すなわち左手が奏するバスとテナーの音の倍音が右手の主旋律と共鳴して、ペダルなしでも十分に旋律線が伸びて聞こえる。もちろんそういう場所ばかりではないので、そういう場所でペダルをどうしたら良いのかは自分で考えなさいという言外のメッセージでした。
倍音!
私たちはバッハの鍵盤音楽を弾くときにどれほど倍音を聞いているでしょうか?低音弦の強く広い倍音の広がりがあるときとないときで、中高音の旋律がどのようにその表情、響きを変えるのか耳を傾けているでしょうか?<反省!>。Snyder教授のこのメッセージを理解すると、バッハの譜面を見るのが楽しくなります。厳密な対位法で書かれている部分やら、倍音成分を利用した部分やら混在していてい、そのあたりを区別して整理してみるとペダリングのヒントが生まれてくるように思えます。
バッハのフランス組曲のサラバンドでペダリングをどうするのかという問いに、アルマンドと同様に検証的で知的なリーゾニング付きの説明が始まりました。サラバンドはバッハの作品、特に組曲作品が舞曲形式を用いていることに気がついて欲しい、と。舞曲というのは足のステップと密接した物理的・生理的な様式。それに加えてSnyder教授は二つの音が作るペアに気がついて欲しい、と。日本語にはないので、日本人には気がつきにくいかもしれませんがと断って、音のペアが言語と密接な関係にあること、さらには舞曲というものが言語と密接な関係にあることを気づかせる。サラバンドは三拍目に重みがありそこに表情があるのはサラバンドという舞曲と関係している、そこでは足を引き摺るのよ、とよくピアノ教師は言うが、Snyder教授の説明は少し違う。二つの音からなる単位を一つのモチーフとして考えて欲しい。そのモチーフが音の長さとは関係なく譜面を埋めていると想像して譜面を読んでみてほしい。バッハの場合であればモチーフは各声部ごとに存在するものだし、声部をまたがったモチーフは存在しない。二つの音からなるモチーフはheavy, light,という音のペアの連続なのだと主張。なるほど、引き摺っているから重いわけでなく、軽いステップで引き摺るサラバンドが目に浮かびました。
古典派時代の例として、モーツァルト、ピアノソナタハ長調K330の第二楽章が登場する。さてここでペダリング指南がどのようなものであったのか。感心したのはバッハのフランス組曲を例として説明した理由づけされた知的なペダリングのルール(原則という意味です)を、モーツァルトにも適用させたことです。バッハとの違いがあるとすれば、鍵盤楽器がチェンバロからフォルテピアノになったこと。さらに、チェンバロも知っていたモーツァルトが大いにフォルテピアノならではの響き利用したこと。フォルテピアノにはペダルが付いていたので、対位法的な音から和音を多用した左手の音形が可能になる。右手左手の譜面に書かれたアーティキュレーションもペダルの存在を前提としたのだとすると、と始まると二小節目のペダリングが合理的に説明できる。一拍目は装飾音が付いているから、それだけでも華やかな音が出るし、左手の和音に支えられた旋律であるからペダルは不要、と。むしろペダルと踏むとすれば私は三拍目にしますというのは、バッハのサラバンドの説明とも異なり、ここは音楽的な表情からの要求とSnyder教授が解釈していると感じられました。音を出して聞かせてくれましたが、確かに三拍目だけにペダルを入れた時の表情がそれまでのペダルなしでも華やかな音とはガラリと変わって非常に深みのある美しい音が聞こえました。
ベートーヴェン作品をどのようにペダリングするのか?例示されたのはテンペストの第二楽章。ここでSnyder教授が使ったペダルテクニックは”オーバーラッピング・ペダル”という技法。この曲がオーケストラ作品であれば、そうでなくてピアノソロの曲であればという比較から始まった。オーケストラ作品であれば一小節目はオーケストラのTutti、そして二小節目は歌手のソロと考えられるが、その時、一小節目の響き消えてからソリストの声が響いても不自然ではない。しかしピアノソロでそのオーケストラ効果を出そうとするのであればオーバーラッピング・ペダルが必要、と。一小節目の響きが残っている間にソリストに入ってきて欲しい。そのためにはごくわずかだけペダルの踏み替えを遅らせる。その結果、一小節目と二小節目が(同じ調性だが)繋がった(semented, glued)音楽となる。具体的には一小節目の響きがペダルで残っている間に二小節目に入り、二小節目の最初の音を打鍵した後にペダルを離す。これはオーバーラッピング・ペダルというテクニックでロマン派に入ると多用されることになるが、和声が同じ場合、小節が変わって全く違う音楽の風景になってもペダルをごく短時間だけ踏み続けて二つの小節の異なった音形が実は異なった楽器にバトンタッチされていても音楽的には同じフレーズに統一されるということを聞いている人に分かってもらうために非常に有効なペダリングである。
ベートーヴェン作品はピアノの進歩と並行して音域もダイナミクスも広がりそれがベートーヴェンにとっての創作意欲に繋がるが、フォルテピアノの進歩のプロセスの中ではモダン・ピアノにはない工夫がいくつかあった。その一つがペダルによってサステイン(維持される)音の鍵盤上での音域が、モダン・ピアノのように最低音から最高音までいっぺんにでなく、低音域、高音域と二つの音域でペダルを使い分けることができるフォルテピアノが存在した。同じワルトシュタイン二楽章が例として使われる。例えば22章節目。右手の和音が降りてきて4つ目の和音のあとに、4つ目の和音をサステインさせながら(と楽譜からは読める)左手の低音がレガートなしのまるでティンパニーのような音を響かせる。ここでSnyder教授は次のように説明する。四つの和音を高音用のペダルでふみかえながらレガートで弾く、そして4つ目の和音を弾いた後はペダルを上げて、手で和音を維持しながら左手でノンレガートで低音を弾く、と。モダンピアノではペダルは上げなければならない。当時のピアノであればペダルを踏み続けても、左手のティンパニーの音域はサステインされないから、ペダルなしの音を作ることができたという訳だ。この例にあるように、ベートーヴェン作品の譜面を読み解く時に、当時の楽器には可能であった奏法をモダンピアノで同じ音を、すなわちベートーヴェンが望んだ音を出すためには、ペダリングをどうしたら良いのかということの答えが当時の楽器の仕組みを知ることで明快な答えが得られる、というSnyder教授の説明。なるほど!
ロマン派に入るとペダリングの意味は非常に大きく変化する。ショパン幻想即興曲を例に説明が始まる。Snyder教授はショパンが使っていたピアノを思い浮かべながら、モダンピアノでその音を再現するにはどうしたら良いのかという問いにアクセスする。ここでもバッハのフランス組曲が引用される。左手のアルペジオと右手の戦慄の役割はバッハと同じだろうか?左手の音の役割はバッハの時代とは大きく異なり、ショパン、ブラームス、シューマン、ラフマニノフとより現代に近づくにしたがって、左手の音量の強調が始まる、と。では左手と右手の関係はいかなるものに?そしてそのことを知った時にペダリンをどのように変えなければならないのかと問う。Snyder教授は左手の強調を突き詰めて考えた時に、右手の旋律線が本当に旋律なのであろうかと私たちに問うた。右手の華やかな音形は場所によっては旋律のようでもあるが、遠く高音域に飛翔するとそれはもう旋律とは言えないのではないかと言う。一貫して音楽を伝えているのはむしろ左手ではないのかと言外に匂わす。ここでもモダンピアノで深いペダルを多用するとショパンが求めた音から乖離してしまうので、Snyder教授は全域に渡ってフルペダルを避けて、ハープペダルを試すように勧める。
ショパンが求めた音をモダンピアノでどのように再現したら良いのかという問題に答えを与えるべく、Snyder教授はショパン前奏曲作品28の第一番ハ長調を例に、いくつかのエディションを比較することから始める。資料として準備されたのは五つのエディション。初版から始まりよく知られたパデレフスキー版、最新のエキエル版など。Snyder教授はそれぞれの版がピアノ奏法を大別したロシア奏法、フランス奏法、ドイツ奏法を強く反映したペダリング、フィンガリングであることを指摘する。そして彼が選んだのがコルトー版。理由はショパンに一番近いところにいた人だから。ポーランドの権威あるパデレフスキー版、エキエル版でなく、コルトー版が選ばれたのは興味深い。この曲を例として説明しながらSnyder教授は非常に興味深いことを説明する。当時のショパンの響きを持つモダンピアノはもう存在しないが、当時の音を想像するには、、と言いながらオクターブ上で弾き始める。重苦しい音は軽やかの音に激変する。この響きの中でショパンの求めた音を聞け、そうすればペダリングは自動的に理解できるよと言いたげでした。
最後はドビュッシー。前奏曲集から「野を渡る風」と「夕べの大気に漂う音と香り」。「野を渡る風」は実に軽やかな音を作るために一拍の中で踏む、離すという頻繁なペダリングが示された。そのあとに繰り広げられる低いバスに支えられた和音の下降はたっぷりとした長いペダル。ここでは大別して大きな二つの音色が聞こえて来た。細かく言えば冒頭の一拍の中での前半(踏む)と後半(離す)のサイクルの中で聞こえる色彩と、そのあとのバスの上に乗った豊かな倍音の中を降りてくる和音のクラスターの作る色彩と、その絶妙なコントラストが印象的でした。「夕べの大気に漂う音と香り」で強調されたのは印象派音楽がどのように音を作るのかです。彼はこの音楽を例にとりながら、部屋の中にカメラがあることを想像してごらん、それをゆっくりと回すと色々な場面が見えてくるが、どこかに停止してひとつのショットを見せるわけではない、いつも場面は動いているという。カメラがペダルだと思って欲しい、という。次から次へと変化していく色彩を考え抜いたペダリングを、譜面に書かれたアーティキュレーションと密接したタッチとの関連で考えなさいと説明。実に説得力があった。
以上が各論だとすると、全体を束ねるメッセージがなんなのかもう一度思い出してみよう。繰り返しになるが私の理解です。
(1)ペダルは音楽の発展史と密接な関係にある。作曲者が望んだ音を再現したいのであればそのことを無視できない。モダンピアノでのペダリングはピアノの発展史を視野に入れること。
(2)例えばバッハでは最小限のペダルを、あるいはどこであってもペダルを踏んではいけないと教えるピアノ教師は巷に溢れる。好き、嫌いという感情レベルの議論でなく、歴史的観点に立った合理的は理由づけのあるペダリングは説明されうる。
(3)バッハの倍音の例にあるように、モダンピアノが出す豊かな倍音を聞くこと。基音だけ聞いていませんか?
日本の音楽教育、それがピアノ教室であろうが、大規模組織運営であろうが、音楽大学であろうが、これほどの説明責任を背負ってペダリングを指導できる指導者がどれほどいるだろうか?合理的な説明が欠けているのはペダリングに止まらない。「それは違う!」「こう弾きなさい」と理由なしに生徒、学生に押し付けるピアノ教師は百害あって一利なし。日本人のピアノがメカニック重視になって来ているのは、決して日本人がメカニックに強い人種だからではない。メカニックとは最後の逃げ場。何も説明されないで教育を受けたピアノ学習者が間違いなく弾くという目標しか与えられなくなった時にたどり着く哀れな着地点である。まずはピアノ教師がきちんとした言葉の能力を獲得して、それを日々のレッスンに生かすこと(説明すること)であり、Snyder教授のセミナーのように貴重な機会を捕まえてとことん理解できるまで学ぶこと。そこから出発したらどうでしょうか。
鈴木陶子さんについて。今回のBarry Snyder教授のセミナーを受講して強く印象に残ったことがあります。それは主催者の鈴木陶子さんの高い能力です。鈴木さんはイーストマン音楽院でSnyder教授に私事したそうですが、今回のセミナーでは彼女は三つのことをしました。その何れもが高く評価されることです。(1)セミナーのデザインを作った。(2)セミナーで英語の通訳をした。(3)英語から日本語へ通訳する段階で鈴木さんはかなりの補足をしていました。それぞれを紐とくと:(1)準備されていた詳細な資料は鈴木さんがSnyder教授を相談しながら作ったものだと想像できますが、それは鈴木さんのパワフルな企画力と、それに応えたSnyder教授の鈴木さんへの信頼あってのことです。滅多にない高いクオリティのマスタークラスでした。(2)英語の通訳の能力には本当に感心しました。(3)Snyder教授の話していることをそのまま日本語にしてもセミナーでは分からない人がおられるからと考えて、鈴木さんは実に細やかな補足をしていました。これはSnyder教授の意図を知り抜いている人でしかできないことです。
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Snyder教授のレッスンのフィードバックです。
ポイントA. 私は音楽というのは様々な解釈があり得ると思います。大きくはもちろんフランス音楽、ドイツ音楽、ロシア音楽とカテゴリーはありその枠組みの中で演奏することには同意します。しかし一方で、世の中には自分と同じように弾かせようとする、解釈を押し付けるレッスンやマスタークラスがほとんどなので、うんざりしているというのが実情。音楽の解釈は押し付けられるのが非常に困る。Snyder教授のレッスンはまず音の出し方という高度な具体性を持ったもので、私には非常にフィットしました。
ポイントB. 一箇所として表現の仕方を指摘されませんでした。もちろんそれは今日の50分の中ではたどり着けない場所なのだと思いますが、一言も言及されなかったということは上に書いたポイントAとコンプリメンタリーな事です。すなわち、表現したい音楽というものは「あなたの音楽ですよ」という勇気づけを感じたし、「あなたが責任を持つことですよ」という教訓も受けとりました。これはとても良いことだと思う。音楽は結局は自己責任ですあり、自己表現であるからです。表現したものが商品価値を持つのか持たないのかは全く別問題で、はじめから商品価値が生ずるような教育は私には合わない。
以下具体的なことです。
(1)手の形、指のどこで打鍵するのかというも問題が最初の一ページで議論されたのは非常に私に取ってはinstructive, productiveでした。手の形に加えて、手首、肘などがレッスン中に具代的に登場するのも、プラグマティックなレッスンです。
(2)Snyder教授が実際にピアノで弾いてみてくださる。彼の手の形を変えて、GoodとBadの音を出して比較する。これは非常に役に立ちました。
(3)ペダリングにフォーカスしたコメントも役に立ちました。ペダリングというのがどこで踏むのか踏まないのかということが議論されるのでなく、音色、フレージング、肉体的な問題と関連していることが体感できたのは良かった。
(4)最初の一ページ(おそらくその後も)をハーフペダルでやって見なさいというので、恐る恐るやりましたが、音がガラリと変わって自分ながら驚きました。求めていた音色です。
I am sending you my feedback to the super lesson of Prof. Snyder today. I thank you Dr. Suzuki for today.
Overall comment A: My belief about interpretation of music is music should be variably interpreted. Of course there are disciplines that govern the very basic music structures of French, German and Russian schools. Despite, I do think piano lessons and master classes should focus not more on interpretation aspects but on more practical aspect. I am not hoping to become a copy of someone but rather would like to express myself. Professor Snyder’s lesson today started with the very basic skill of how to make sounds with particular hand posture. This is the kind of lessons I have long wanted.
Overall comment B: Professor Snyder did not mention, never ever my interpretation of Faure Nocturne No. 6, except for a very general description which I did agree with. Probably 50 minute lesson was too short to go further into interpretation aspects of pieces one person is studying. Never the less, his attitudes of teaching starting with the very practical aspects of piano performances with fully pragmatic reasonings encouraged me very much as if he were telling me to make my own music and take my own responsibility. His attitudes are very nice, since music to me is wonderful self-expression and self-responsibility. Whether or not the expressed music has a marketability is another story. In this regard, I do evaluate Professor Snyder’s lesson highly.
Some other details.
1. It was very instructive and productive for me that Professor Snyder started with hand posture and where to make sounds, spending mcuh time on the very first page of Faure. In addition to the hand posture, he mentioned a lot wrist movement, elbow movement and so on in connection to the finger and hand postures. It was a very pragmatic lesson.
2. Another good thing about his lesson is that he actually sits at the piano and shows how his fingers, wrists and elbows move, every time he tries to make me understand how those body parts and their movements change sounds. I learnt a lot out of witnessing.
3. Today’s lesson had an emphasis on pedaling. He explains pedaling in connection with sound, phrasing and the physical issues of our body. This was great!
4. An attempt to try on half-pedaling all the way of the first page of Faure, which I dared to challenge upon his suggestions, did work very well in making warmer sonority. This is the sonority I have long wanted to acquire for Faure.